• 作品の背景

    解説:作品を振り返って

    リンダ・ハッテンドーフ監督

    ジミーに出会ったのは2001年の1月です。
    私の住むニューヨーク、ソーホーの街角にジミーはいました。その日は雪が降り始めていて、ジミーは韓国人経営のデリの店の軒先を風雪を避けるように陣取っていました。コートや毛布をいくつも重ねて体を被っていたので、顔がほとんど見えなかったくらいです。悪天候にもかかわらず黙々と猫を描き続けていました。

    かわいい猫の絵に惹かれて私が声をかけたら、ジミーはその絵をくれました。ただ、代わりに写真を撮ってくれと頼まれたんです。翌日私はビデオカメラを持って彼のもとを訪れ、絵の背後にどんな物語があるのかを尋ねました。
    そこに潜んでいたのはとてつもなく大きな物語であることが、後になって分かるのです。

    私が子供だった頃、母は好んで母の父親が撮った1930年代のホームムービーを出してきては、映写してくれました。この祖父は私が生まれたときには亡くなっていたので、祖父について私が知っているのは祖父がどういったものを被写体として選んだのかということです。この映像を見ることは祖父の眼を通して世界を観ることでした。

    そんな経験があるので、で子供の頃から映画は多くの楽しみを伴うことを学びました。視覚的な美しさ、知られざる世界についての知識、そして一緒に鑑賞する人とのあいだに生まれる共有感などといった楽しみのことです。

    学生時代はアートと文学を学びました。視覚と言葉、どちらのコミュニケーションも大好きです。映画はその両者を融合して新しいものを創造します。とくにドキュメンタリーはつねに学ぶことがあり、様々な人たちを意義ある形で結びつけてくれるので、私にとっては理想的で最もやりがいのある仕事です。

    「写真を撮ってくれ」というジミーにレンズを向けると、彼は自分のアートと人生について堰を切ったように話し出しました。はじめのうち、カメラはジミーが私に語りかけてくれる口実を与える道具でした。そうしているうちに路上にいるアーティストの四季を追った短いドキュメントを作ろうかという考えが浮かびました。

    そうすることでジミーのような状況にいる人たちに対する一般の関心を高めることができればと思ったのです。加えて、この作品を見た人がジミーを助けてくれたらいいなと思いました。

    重要な鍵を握っていたのは彼の絵です。ジミーが私の前で初めてツールレイク強制収容所の絵を掲げて「これが歴史だ」と宣言したとき、とてつもない力強さを感じました。日系人強制収容所の話は主要なマスコミでは取り上げられません。

    それでジミーは独自のメディアを作りだして訴えていたわけです。60年後になった今でも描き続けることで、この出来事が忘れ去れないように・・・。

    ジミーの生活を記録しはじめたときにショックだったのは、彼のような高齢者が路上で生活していたことです。
    なぜあの人はあそこに居るのだろうか。一体過去に何があったのかを知りたいと思いました。ジミーについて知れば知るほど、もっと詳しく知りたくなってしまい、ますます深く関わっていきました。

    ジミーが戦争中に強制収容所に入れられ、広島の原爆によって家族や友達を亡くしていると知ったとき、そんな深刻な理由で過去に「家」を失ったことと、路上にいる現在との関係性を追究することが重要だと感じました。彼がいつも居た通りの角は私のアパートから1ブロックのところだったので、毎日訪ねて行くようになりました。カメラはジミーが無事でいるかを確認しに行くいい口実になりました。

    アーティストなら誰でもみなそうだと思いますが、ジミーも例外ではなく、自分の作品を記録したいという欲求がありました。まもなく私はそれぞれの絵の背後には奥深い物語が潜んでいることを知りました。過去を知った上で驚くことは、語って聞かせて人の注目を得るんだというジミーの強い意志でした。

    ある意味ではジミーは活動家と言えますね。彼の物語をみんなに知ってもらうために絵を描いているのです。戦争中に彼自身とそして何千人もの日系人の身に起こったことは、今日の歴史ではほとんど語られません。私のドキュメンタリーは、歴史を目に見える形としてみんなに伝えたいというジミーの願望の延長線上にありたいと思いました。これ語られていない歴史を次世代にも語り継ぐように。

    出会いから9ヶ月が過ぎた時、世界貿易センターが破壊され、ジミーの話しは過去と不気味に共鳴する様相を呈しました。私たちは歴史が再び繰り返されるのを目撃したのです。煙の中で咳をしながら黙々と描き続けるジミーを撮影するなんて私にはできませんでした。それで自分の家に招き入れたんです。その後、話は予想だにしなかった大きな展開を見せたのです。

    私たち2人、そして私の飼い猫との同居生活が始まりました。ともに過ごした期間は5ヶ月。私たちは家族のようなものでした。アパートを大きな本棚で半分に仕切って、「私の側」と「あなたの側」と呼びました。ジミーの側にあったのは彼が寝ていたソファと絵を描くためのテーブルとなった机です。私は日中仕事に出かけ、ジミーはアパートにいて絵の創作に励みました。ほぼ毎晩、私が仕事から帰ってくると、私のために描いてくれた新作が待っていました。

    夕食を一緒に料理して食べたあとで、テレビかビデオを見ました。近所のビデオレンタル店に頻繁に連れて行ってジミーの見たい邦画を借りてきました。その店にあった黒澤明作品は全部見たはずです。ほかにも『赤穂浪士』『二十四の瞳』『無法松の一生』『宮本武蔵』3部作なんかがジミーのお気に入りでした。これらの映画はジミーが日本で育った子供時代を思い起こさせてくれたようです。どんな学生服を着ていたかとか、祖母がどんな料理を作ってくれたとか・・・。見るビデオがなかったときに、私がオハイオで育った子供時代を父が撮ったホームムービーを見せたことがあります。ジミーは楽しんで見てくれました。これは私の子供時代をジミーと共有できた貴重な機会でした。そんなことを通して、お互いによく知り合うことができました。

    現代社会の重大な問題をこれほど多く人生で背負っている一個人は珍しいです。戦争と平和、人はどうやってホームレスになるのか、現代の高齢者社会が必要とするもの、過去の人種差別の後遺症、そして9・11後のアメリカの将来の方向・・・・・・ジミーの人生はそれらすべてに深く関わっています。

    これは政府が1人の「アメリカ人」を裏切ったこと、そして救ったことの両面の話でもあると同時に、映画を含めた「芸術」がお互いをよりよく理解する助けになることを示す話でもあります。戦争と人種差別の消えないトラウマと、コミュニティとアートが持っている癒しの力をこの作品を通して伝えることができたらと思います。そしてみんなに歴史を「感じて」ほしいのです。

    *初出「ピース・キャッツ」(2007年 ランダムハウス講談社刊)再録にあたって改訳
    *ミリキタニ没後にハッテンドーフ監督が書いた文章は「ミリキタニの思い出」(第1巻)に掲載