• 作品の背景

    美術史からみる
    ジミー・ツトム・ミリキタニ

    金子牧(カンザス大学美術史学部准教授)

    映画『ミリキタニの猫』で一躍有名になって以来、ジミー・ツトム・ミリキタニの美術は、世界中の多くの人々を魅了している。同時に、「魅力的だけど、これってうまいの?」、「子供の絵みたい」、「アウトサイダー・アート的?」といった称賛とも戸惑いともとれる感想も聞くことがある。

    美術史を専門としているとこの手の質問、つまり「これって何?すごいの?」、にはよく出くわすが、その都度(恐らくはシンプルな答えが期待されているにも関わらず)長々とした説明を返してしまい、往々にして気まずい思いをする。

    しかし多くの美術作品、ことにミリキタニ作品に関しては、通り一遍のシンプルな答えは存在しないと思っている。「これって何?」という戸惑いや疑問を私たちから引き出すこと、それ自体がミリキタニ芸術のパワーだと思えるからだ。

    実質的な無国籍者として半世紀以上を過ごしたミリキタニは、その芸術においても越境者だ。彼の作品は、そう簡単には従来の美術のカテゴリーには収まってくれない。日本美術・アメリカ美術・アジア系アメリカ美術、日本画・洋画、アバンギャルド・アカデミズム、現代美術・伝統美術、どれをとっても、ミリキタニの作品や芸術活動にはしっくり来ない。

    その意味では「アウトサイダー・アート的」といえなくもない。しかし「アウトサイダー・アート」が美術の制度外の人物による制作物だとすれば、ミリキタニは日本画の訓練を受けた「グランド・マスター」なのだから、やはりこのカテゴリーにも大人しく収まってはくれそうにない。言い換えれば、私たちはまだミリキタニの作品を十分に語りえる言語を持っていないのだ。この一点においてだけでも、ミリキタニは大変エキサイティングなアーティストだ、と思う。

    だがこんなことをいうと、当のミリキタニは怒るかもしれない。戦前に木村武山、川合玉堂に学んだことを何よりの誇りとし、晩年まで雅号雪山(1950年代までは萬信)を使い続けたミリキタニは、終始「日本画家」としての高い矜持を持っていたと思われるからだ。

    実際ミリキタニの作品を、「日本画」として読むことは充分可能だ。日輪、花鳥、龍虎、竹林、猫といったミリキタニ作品にみられる多くのモチーフは、彼の広島での原風景であると同時に日本画及び東洋伝統絵画に連なる主題でもある。また一見日本画とは縁遠く見えるヒロシマや9.11を主題としたコラージュ作品においても、原爆ドームやワールドトレードセンターを包む炎は、仏画の定型化した火焔表現(もしくは、仏画の火焔表現自体を中心主題とした速水御舟の1925年の作品『炎舞』のそれ)を忠実に踏襲している。そこに頻出する観音像の多くは楊柳観音であり、これはひょっとすると日本画の名作として広く知られる狩野芳崖の『悲母観音』(1888年)を意識しているのかもしれない。

    また、基本的には岩絵具と墨で描く日本画の視覚・触覚効果を、ボールペン、クレヨン、色鉛筆で出すために、ミリキタニは実に様々な手法を創造的に駆使している。

    彼のトレードマークでもある猫の絵は(年代や作品によって違いはあるものの)、その毛一本一本が描きこまれているが、これは恐らく伝統技法である「毛描」を意識している。鯉や魚群などもミリキタニお得意のモチーフであるが、その中の白波の表現には修正液のような画材を用いて胡粉の盛り上げ効果を狙ったものもある。更に、時として厚紙がやぶれるほどの筆圧で描かれた輪郭線、ハッチングのような手法による陰影は、墨の豊かな濃淡をボールペンで表現しようとした結果なのかもしれない。

    ではミリキタニ作品は「日本画」か?と問われれば、やはり多くの人が答えを濁すのではないだろうか。

    日本画の「正統派」から見れば、ボールペン、クレヨン、段ボールといった非伝統的な画材の使用は、それだけで大変な逸脱であろう。ここ20年ほど日本画の伝統技法やモチーフをアプロプリエート(盗用)し、その権威に挑戦する現代アートが数多く制作されているが、そうしたラディカルなアーティストの中でも、ミリキタニ程の大胆さでもって、日本画を換骨奪胎したものは見当たらない(少なくとも私はそう思っている)。

    若い時に訓練を受けた日本画へのオブセッションともいえるこだわりを、ニューヨークの街頭という場で入手可能な画材で表現したミリキタニ作品。それは「ニューヨークストリートで生まれた日本画」ともいうべき、脱領域的でハイブリッドな創造性を示している。

    しかし、私たちはそうしたミリキタニの創造性を、ユニークな芸術作品として単に称賛するにとどまるべきではない。

    ミリキタニは、挑戦的な「日本画」を制作するために、意図的にボールペンやクレヨンを選んだのではないからだ。西洋と東洋の美術の架け橋になることを夢見た青年の人生を大きく変え、絹本でなく段ボールに、アトリエではなくストリートで、その怒りと望郷の念を描くことを強要したのは、日米戦争と戦後も続く両国の軍事主義、そして人種偏見であった。

    こうした過酷な状況にも関わらず、ミリキタニが多くの作品を作り出した背景には、ボールペン、クレヨン、色鉛筆、紙、そして食事を提供し、ミリキタニの生活と画業を支えたニューヨークの地域コミュニティの存在がある。ミリキタニの作品には、アーティストが生き抜いた歴史・社会・ストリートの痕跡が生々しい形で刻み込まれている。

    ミリキタニ作品の「これって何?」を問い続けることは、まだ言語化されていない様々な歴史の声に耳を傾けるという行為でもあるのだ。