• 作品の背景

    『ミリキタニの猫《特別篇》』を
    よく知るためのキーワード

    キベイ [Kibei]

    アメリカで生まれ、日本で育ち(日本で教育を受け)、修学後にアメリカに帰ってきた二世のこと。漢字表記は「帰米」。当時の日系人の中には、日本の教育・文化の方が優れていると考え(日本の文化や日本語を忘れて欲しくない)、子供を日本に送って(親戚などのもとで)日本の学校で学ばせる日系人(一世)が多くいた。
    ※ジミーも「キベイ」の一人である。

    真珠湾攻撃 [Attack on Pearl Harbor]

    日本時間1941年12月8日(ハワイ現地時間12月7日)に日本海軍がハワイ真珠湾のアメリカ海軍の太平洋艦隊と航空基地に対して行った奇襲攻撃。この攻撃によって太平洋戦争が始まり、日本とアメリカが第二次世界大戦に参戦した。

    大統領行政令9066号 [United States Executive Order 9066]

    裁判や公聴会なしに特定地域から住民を排除する権限を陸軍にあたえるという大統領命令。1942年2月19日 ルーズベルト大統領が署名。これが、日系アメリカ人の強制立ち退き、そして強制収容への一連の軍事行動を可能にした。その後3月18日にルーズベルトは強制収容所を管理するために戦時転住局を設置するという大統領行政令9012号に署名している。

    集合センター(仮収容所)[Assembly Center]

    強制収容所の建設工事が間に合わなかったため、強制立ち退きを強いられた日系アメリカ人たちは、収容所に送られるまでのあいだ、16ヶ所の集合センター(仮収容所)に抑留された。うち14ヶ所はカリフォルニア州内に設けられ、いくつかは体育館や競馬場の馬舎(サンタ・アニタパーク競馬場もその一つ)であった。集合センターが最初に開設されたのは1942年3月末で、すべての抑留者が強制収容所に送られた1942年9月に最後の集合センターが閉鎖された。
    ※ジミーはワシントン州ピュウアラップの集合センターに送られた。

    日系人強制収容所 [Japanese American Internment Camp]

    日米開戦の翌年1942年に、アメリカ西海岸一体の地域にすむ日系移民・日系アメリカ人たちは、その7割がアメリカ生まれの二世で市民権を持っていたにもかかわらず、強制的に立ち退きを命ぜられた。計12万人の日系人がアメリカ政府によって戦時転住局が管理する10ヶ所の強制収容所に入れられた。すべての財産を失ってしまった人もいた。

    ツールレイク収容所 [Tule Lake Internment/Incarceration Camp]

    「トゥーリー レイク」が英語の発音に最も近いと思われるが、当時の日系人はかなで「ツールレーキ」、漢字で「鶴嶺湖」と書いたことを踏まえ、ここでは「ツールレイク」と表記した。

    第二次大戦中に作られた全10ヶ所の「日系人強制収容所」の1つとして、1942年5月、カリフォルニア州最北部(オレゴン州との州境近く)に開設。その後「忠誠登録」(「不忠誠」参照)の答えに基づいて、1943年半ばからは、アメリカに "不忠誠" とみなされた人たちを集めた、唯一の「隔離センター」となった。アメリカに "忠誠心がある" とされた人たちは他の収容所へ転出し、代わって他の収容所から "不忠誠" とみなされた人たちが移送されてきた。「忠誠登録」の答えにかかわらず、もとからツールレイクにいて留まった人もいる。

    ピーク時の収容者人口18,789人は、日系人強制収容所の中で最大。収容所のなかでは一番最後となる1946年3月20日に閉鎖された。 
     ※ジミーは開設の1942年5月から、閉鎖の1946年3月まで、ここに収容されていた。

    忠誠審査(忠誠登録・忠誠テスト) [Royalty Questionnaire]

    日系人のアメリカ(政府)に対する忠誠心をテストする目的で、日系人強制収容所を管轄していた戦時転住局(WRA)が、18歳以上の収容者全員に対して1943年始めに行なった、各項目に「イエス」か「ノー」で答えるアンケート(質問表)が「忠誠登録」(忠誠審査・忠誠テストとも呼ばれる)である。以下の2つの質問が大きな問題となり、日系人のあいだで対立と混乱を生み出した。

    第27問  あなたは合衆国軍隊に入り、命令されるいかなるところにおいても、戦闘任務につくことを誓いますか。

    第28問 あなたはアメリカ合衆国に対し、無条件の忠誠を誓い、外国ないし国内勢力によるいかなる攻撃からも、誠意を持って合衆国を防衛することを誓いますか。また、日本国天皇やほかの外国政府・権力・組織に対して、いかなる形であれ忠誠心を抱いたり命令に服従したりしないことを誓いますか。

    この2つの質問に「ノー」と答えた人はアメリカに対して「不忠誠」(親日派)とみなされた。日本に対する忠誠から「ノー」と答えた人もいたが、内容よりもこのような質問をすることに対する抗議から、家族と離ればなれになるのを避けるために、家族や周りの人たちからのプレッシャーによって・・・などのいろいろな理由で「ノー」と答えた人がいた。どちらか1つに「ノー」と答えた者も、抗議として答えること自体を拒否した者もいた。それらはみな「不忠誠」とみなされた。

    忠誠登録の結果、多くの家族で、対立・別離が生まれ、また世代間の分裂も起こった。不忠誠の人たちは、ツールレイク収容所では多かったが、日系人全体からすると圧倒的少数で、大多数からは「裏切り者」のようにみなされた。戦後アメリカの日系人コミュニティにおいて、差別を受けたり、肩身の狭い思いをした人たちも多かった。

    市民権放棄 [Japanese American Renunciation]

    1944年7月1日、ルーズベルト大統領は公法第405に署名。戦争時には米国で生まれた市民権保持者が市民権を放棄することが可能となった。

    この法律は事実上、日系人を日本に強制送還することを目的に作られた。日系人強制収容所において約5,000人が米国市民権を放棄する書類に署名。そこには子供も含まれている。

    市民権放棄の意味が分からずに、あるいはよく考えずに周りに同調して署名した人もいれば、事実上強制的に放棄させられた人もいる。放棄の署名に関しては、弁護士らの専門家に相談やアドバイスを受ける権利は一切与えられなかった。アメリカ政府に対する反発や家族と一緒にいるためという理由で署名した人もいる。市民権放棄者の多くはツールレイク収容所にいた人だった。

    クリスタルシティ収容所 [Crystal City Internment Camp]

    サンアントニオの南西、メキシコ国境から50キロほどになる、テキサス州南部の収容所。「日系人強制収容所」とは異なり、司法省移民局の管轄下で「敵性外国人」を収容した。当初は2,000人ほどの一世の日本人とその家族を主に収容していたが、ドイツ人捕虜やドイツ系アメリカ人、イタリア人、ペルーからアメリカ政府が拉致した日系ペルー人も収容するようになる。その後日系人強制収容所の閉鎖に伴って市民権放棄者の日系人も送られてきた。1947年11月に閉鎖。

    ウェイン・コリンズ (Wayne M. Collins・1900-1974)

    サンフランシスコのACLU(アメリカ自由人権協会)の弁護士。日系人強制収容所でアメリカの市民権を放棄した約5,000人の日系人の市民権回復をほぼ一人で手がけ、20年以上の歳月を費やしてこれら日系人の市民権回復を勝ち得た。また、戦争中にアメリカ政府によって拉致されてアメリカに抑留された日系ペルー人のために尽力したほか、「東京ローズ」裁判においては被告弁護人を務めている。

    市民権回復

    コリンズ弁護士は1945年8月から約5,000人の「市民権放棄者」の市民権回復について日系人にアドバイスを始め、市民権放棄(=剥奪)は違法だとしてアメリカ政府と争った。1945年コリンズは集団訴訟を起こし、市民権放棄者の日本への強制送還差し止めに成功。その後、集団訴訟が認められなかったため、コリンズは1人1人を原告として、アメリカ政府を相手に個別に訴訟を起こし、1959年春までには多くのが市民権を取り戻した。

    コリンズが手がけるのを終えた1968年3月6日までにはほぼ全員の市民権が回復された。裁判所は「市民権放棄」は鉄条網に囲われた強制収容という状況下で強要されたものであったとして、無効であるという判断をくだしている。

    シーブルック農場 [Seabrook Farm]

    フィラデルフィアの南50キロほどに位置し、ニュージャージー州南部のブリッジトンという町にある、ニュージャージー州最大の農場。冷凍や缶詰の野菜を軍に供給する契約を受注しており、戦時中は常に労働力不足だった。極端な低賃金で働くヨーロッパや中米から来た移民が労働力で、1944〜45年に収容所から2,500人以上の日系人が移ってきて働いた。1947年には雇用者が最高数に達し、5000人が働いていた。1950年代には「世界最大の野菜工場」とも呼ばれた。

    トライベッカ映画祭 [Tribeca Film Festival]

    2001年9月11日の同時多発テロ事件のあと、地域の復興を願って、ロバート・デ・ニーロらが中心となって2002年に始まった映画祭で、ニューヨーク、マンハッタンのトライベッカ地区で毎年春に開催される。
    ※2006年のこの映画祭で「ミリキタニの猫」は世界初上映。観客賞を受賞した。

    ワシントンスクエア公園 [Washington Square Park]

    マンハッタンのダウンタウンの中心的な公園で、周りにはニューヨーク大学(NYU)のビルが多く建ち並ぶ。
    ※ジミーは一時期この公園にも住んでいた。

    ツールレイク強制収容所ツアー(ツールレイク巡礼の旅) [Tule Lake Pilgrimage]

    日系人主体のボランティアによって運営される非営利団体ツールレイク・コミッティー(TLC)が主催する、収容所跡地を訪問するバスツアー。強制収容された歴史を忘れずに経験を後世に語り継いでいくため、収容体験者の追悼・慰霊などの目的がある。また「隔離センター」であったツールレイクの特殊性も踏まえ、体験者が長年抱えていたトラウマや心の傷を癒す役割や家族の和解の場としても機能している。

    ツアーは(原則)隔年で開催。独立記念日の連休に3泊4日で行われる。2014年は「巡礼の旅」が正式に始まって第20回。近年の参加者は毎回350名ほど(定員で締め切られている)。参加者は、シアトルやサンフランシスコなど、西海岸の数都市から出発するチャーターバスに乗り込んでツールレイクへ向かい、現地で全員が集合。収容所跡地近くの大学キャンパスに宿泊。収容所跡地見学、体験を語り継ぐ世代間のディスカッショングループ、ワークショップ、収容者を偲ぶ追悼式、ディスカッション、キャッスルロック山ハイキング、上映会、パフォーマンスの夜など、多くのプログラムが組まれている。
    ※ジミーは2002年に初参加し、その後亡くなる2012年までに計6回参加した。

    ウィング・ルーク博物館 (Wing Luke Museum)

    正式名称はWing Luke Museum of the Asian Pacific American Experience(ウィング・ルーク・アジア太平洋系アメリカ人史博物館)で、シアトル市内チャイナタウン・インターナショナル・ディストリクト(シアトルのアジア系アメリカ人コミュニティの中心地)にある。 シアトル出身のカンザス大学名誉教授、ロジャー・シモムラは自分がジミーから買った・もらった作品をこの博物館に寄託。そのうち30点を、展覧会を開きたい施設に貸し出せるようにパッケージして保管している。
    ※ジミー初の個展は2006年夏7月7日〜9月17日にかけてにここで開催された。この展覧会はロジャー・シモムラがゲスト・キューレーターを務めている。

    『尊厳の芸術』[書籍] (The Art of Gaman)

    正式には「尊厳の芸術 ー 強制収容所で紡がれた日本の心」デルフィン・ヒラスナ著、国谷裕子監修(NHK出版刊)。原書は2005年にアメリカで刊行。日系人強制収容所において、限られた材料と道具をもとに、数々の美術工芸品・日用品が日系人によって作られた。それらを日系3世のヒラスナが知人たちに呼びかけて集めた作品の写真集。

    『尊厳の芸術展』[展覧会] (The Art of Gaman)

    正式には「尊厳の芸術展 ー The Art of Gaman」。同名の写真集(上記)の著者ヒラスナがキューレーターを務め、写真集で集められた作品が核を成している展覧会。それぞれの作品の所有者から借用して展示しているため、展示作品は写真集と全く同じではなく、また時期によって入れ替わりがある。初の展覧会は2006年のサンフランシスコの工芸・フォークアート博物館にて。その後全米各地を巡回。首都ワシントンDCでは、2010年3月~2011年1月にかけてスミソニアン博物館にて開催された。その後、下記の日程で日本での巡回展が実現した。

    ※ジミーがツールレイク収容所を描いた作品は、2010年スミソニアン博物館での展示から加えられ、日本の巡回展でも展示された。(ジミーの絵が発見されるよりも前に『尊厳の芸術』が出版されたので、この写真集にジミーの作品は含まれていない。)

    日本では5都市を巡回:
    東京藝術大学大学美術館 (2012年11月3日~12月9日)
    福島・こむこむ館 (2013年2月9日~3月11日)
    仙台・せんだいメディアテーク (2013年5月5日~5月18日)
    沖縄・浦添市美術館 (2013年6月1日~6月30日)
    広島県立美術館 (2013年7月20日~9月1日)