推薦コメント
七尾旅人 シンガーソングライター
21世紀の幕開け。2001年初頭のニューヨーク。可愛らしい猫を描く、ホームレスの老人、80歳の日系アメリカ人、ジミー・ツトム・ミリキタニ。氷点下の路上で黙々と描き続ける。
ふとした偶然の出会いから、1人の女性監督が手持ちカメラで彼の姿を追い始める。
幾つかの絵に描き残されたツールレイク収容所での経験。ミリキタニはカリフォルニア州サクラメントに生を受けながらも、敵性外国人としてさまざまな権利を奪われ、ここに強制収容された日系アメリカ人のひとりだった。
家族や友人とも生き別れになりながら、過酷な環境下でたくさんの命が死に追いやられるのを見た。やがて故郷である広島に原子爆弾が投下され、戦争の終結を迎えるが、奴隷同然に引き渡された農場での過酷な労働など、まっとうな市民権回復を受けられぬまま流浪を余儀なくされ、彼にとっての戦時はその後も長く続くことになった。
こうした苦渋に満ちた経験から、もうひとつの母国であるアメリカを信用しきれず、社会保障の受け取りなど米国市民としての権利を拒否したまま、頑なに路上で生き、ただひたすらに描き続けることを選んだ老人。
彼の絵には、故郷である広島の燃えるような柿の実の色が、重要なモチーフとして度々現れる。ミリキタニと遠い故郷をわずかに繋ぎとめる、この懐かしい果実。秋が訪れ、やがて巻き起こる、9.11同時多発テロと、それにともなうナショナリズムの高揚、復讐への気運。さまざまな街で、善良なアラブ系アメリカ人たちが、言われなき暴虐にさらされ始めた。
かつて敵性外国人として迫害を受けたミリキタニの過去と、現在進行形のアメリカが、たったひとつの手持ちカメラで切り取られ、巧みにシャッフルされてゆく。
原爆の炎と、ワールドトレードセンターから立ち上る炎。騒然とした路上で、目前に燃え上がる高層ビルを黙々と描き続けるミリキタニ。広島の柿の色で着色されてゆく、悲しき炎。
煤塵や有毒ガスで淀んだ危険な路上からミリキタニを避難させるため、我が家に招き入れる監督。この日から、二人の不思議な共同生活が始まった。まるでちぐはぐな親子のような二人。人種の違いなど存在しないかのような、でも確実な断絶も伴う、でこぼことした、不思議なハーモニー。この暮らしのなかで、ミリキタニの60年もの孤独にわずかな亀裂が生じ、そして、彼の前に少しずつ、新しい運命が開けてゆく。
歴史に翻弄された、ひとりの無名画家。彼が生み出す鮮烈なアートたち。
スクリーンに映し出されるこの数奇な人生に、私たちは驚嘆をかくせないだろう。
そして、9.11以降の戦乱から生じた現在、2010年代の新しい困難を乗り越えきれずにいるこの世界において、広島の柿の色を、まだ爆炎のために使わざるを得ないのかと、2012年に惜しくも他界した、ジミー・ツトム・ミリキタニからの問いかけを聞く。
とても少人数のクルーで、個人と世界に光を投げかけ、広く深い射程を捉えきった、この「ミリキタニの猫」。幾度となく再生され、いつまでも語り継がれるべき、ドキュメンタリーフィルムの孤独な傑作。